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中山太郎 (民俗学者) : ミニ英和和英辞書
中山太郎 (民俗学者)[なかやま たろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [たみ]
 【名詞】 1. nation 2. people 
民俗 : [みんぞく]
 【名詞】 1. people 2. race 3. nation 4. racial customs 5. folk customs 
民俗学 : [みんぞくがく]
 (n) folklore
: [ぞく]
  1. (adj-na,n) mark in dictionary indicating slang 2. customs 3. manners 4. the world 5. worldliness 6. vulgarity 7. mundane things 8. the laity 
俗学 : [ぞくがく]
 (n) popular music
: [がく]
 【名詞】 1. learning 2. scholarship 3. erudition 4. knowledge 
学者 : [がくしゃ]
 【名詞】 1. scholar 
: [もの]
 【名詞】 1. person 

中山太郎 (民俗学者) : ウィキペディア日本語版
中山太郎 (民俗学者)[なかやま たろう]
中山 太郎(なかやま たろう、本名中山太郎治、明治9年(1876年11月13日 - 昭和22年(1947年6月13日)は、柳田國男折口信夫らと同時代に活躍した栃木県出身の民俗学者。
== 年譜 ==

*1876年11月13日 - 栃木県足利郡梁田村大字梁田(現足利市梁田町)で雑貨商を営む相場吉蔵・テウ夫妻の9人兄弟の3男として生まれた(戸籍上は次男)。相場家は村内でも旧家であり、太郎の祖父の代で十一代目に当たる。父の吉蔵は次男であったため分家し、村内で材木以下、何でも扱う商店を経営していた。母のテウは梁田村の隣村・福富村の生まれ。先妻の死後、後妻として吉蔵の元へ嫁いだ。父の吉蔵は、店の経営を完全に妻に任せ、自分はもっぱら神道指南などの講義を行う毎日を送っていた。吉蔵は平田篤胤の熱狂的な信者であったという。〔中山太郎『日本民俗学事典』所収「中山省吾と大林太良の対談」1980年5月〕〔中山太郎『日本巫女史』「巫女の用ゐし呪文と呪言・言霊の神格化と巫女の位置」1930年〕
*1882年 - 徴兵凌ぎのため廃家を興すこととなり、中山姓を名乗る。同年、梁田尋常小学校設立。太郎も通うようになるが、生来の左利きのため習字や図画が上手くできず、不登校となり卒業できなかった。〔中山太郎『日本婚姻史』自序に代へて 1928年〕
不登校になってからは、家事手伝いの傍ら、父吉蔵から古典のスパルタ教育を受けながら育った。
*1891年ころ - 吉蔵と対立し実家を出る。
*1894年 - 吉蔵と和解し帰宅を許されたが、6月30日吉蔵57歳で死去。
*1896年4月20日 - 母テウ49歳で死去。
*1897年1月 - 養子の身でありながら、両親の遺産を受け取ったため、東京の大学へ進学しようと上京する。のち東京専門学校(現早稲田大学)法科に入学し卒業。
*1901年 - 俳諧で身を立てようと岡野知十門下に入る。この頃、最初の結婚をし、一男を儲ける。
*1903年 - 「電報新聞社」に入社するが長続きせず、その後「下野日々」の記者として宇都宮へ転居した。だが、ここも長続きせず、再び上京して「報知新聞社」へ移る。
*1904年 - 日露戦争従軍記者となるにあたり離婚する。これより2年近くに渡り、北清地方を転々とする。復員後は東京や大阪での新聞記者生活の傍ら、歴史や風俗に関する著作を読み漁る日々を送る。
*1909年 - 寸美会から『日本売笑史附吉原の沿革』を刊行。
*1913年 - 柳田國男の「郷土研究」に触れ感銘し、これこそが自分の進むべき道と確信する。
*1914年 - 報知新聞社を退社。大阪から東京へ戻り、その足で柳田國男を訪問する。同年、柳田の口利きで博文館へ入社。博文館の編集局長・長谷川天渓(誠也)は柳田の友人であった。この頃より「郷土研究」「風俗画報」「歴史地理」に長編を掲載し始める。
*1915年春 - 本郷春木町の古書店でニコライ・ネフスキーと知り合う。同じ頃、折口信夫を知る。
*1917年3月- 「郷土研究」が休刊。「趣味之友」「土俗と伝説」に発表の場を求める。
*1918年6月 - 再婚する。南里幸枝(1914年生まれ)を養女とする。
*1922年4月18日 - 植物研究所への資金を募るため上京した南方熊楠を訪問。
*1923年9月1日 - 関東大震災に遭い、神田にあった自宅が全焼。
*1926年 - 『土俗私考』『日本民俗志』を刊行。同年、南方の『南方随筆』の編集を任されていた中山が同書の巻末に寄せた「私の知っている南方熊楠氏」という一文が原因で柳田と不仲となる。〔1926年5月22日付 南方熊楠宛の柳田國男書簡(飯倉照平編『柳田国男・南方熊楠往復書簡集下』1994年)〕
*1928年 - 『日本婚姻史』を刊行。
*1930年 - 『日本巫女史』『日本若者史』を刊行。
*1933年4月 - 東洋大学講師となる。多年に渡り収集した民俗学カードを元にして『日本民俗学事典』を刊行。
*1934年 - 20年来の研究テーマであった盲人研究を『日本盲人史』として刊行。12月8日、出版祝賀会の挨拶で折口信夫を批判したことから折口が激怒する。
*1935年 - 「民間伝承の会」が設立。7月『愛欲三千年史』を刊行。民俗学の主流からますます離れていく。8月21日、養女・幸枝が死去。
*1941年 - 『歴史と民俗』『伝統と民俗』翌年には『生活と民俗』『国体と民俗』を刊行。
*1943年 - 空襲を避けて郷里足利へ妻マスと養子省吾(太郎と前妻の長男の次男つまり孫)とともに疎開。母の生家があった福富村の御厨神社境内で生活。
*1945年 - 終戦後は、農作業をしながら万葉集の民俗学研究をはじめる。
*1947年6月13日 - 糖尿病による腎臓炎で死去。遺骸は菩提寺・長福寺に葬られた。
(没後)
*1962年 - 最後の研究であった万葉集研究が『万葉集の民俗学的考察』として刊行される。
*1968年10月12日 - 妻マス死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中山太郎 (民俗学者)」の詳細全文を読む




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